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アモイ民俗

時間:2009-09-25 17:17:30作者:sysadmin

中秋節

 皆集まって会餅の状元を博する習わしは閩南人独特の中秋民俗で、アモイの人の中秋祭りの伝統行事です。300年前、鄭成功は清の統制を覆るために、厦門で軍隊を養成訓練していました。この風習は、中秋節に兵士の望郷の思いを和らげ、軍隊の士気を励ましてオランダ侵略者を追い払って台湾を奪還するために、鄭成功の軍師である洪旭という人が当時今の洪本部3344号に駐留した後部の役所の人と相談して考え出したゲームだそうです。それは、「中秋会餅」を巧みに設計して、将兵に中秋夜に餅を賭けて狂喜させたことです。

 会餅を賭けるには「会」を設けます。一つの「会」には四、五人ぐらいです。会餅は昔中国で行われていた官吏登用試験・科挙制度を真似って六段階のランクで順番に餅の大きさを決めます。一番大きいのは「状元」一つ、次は「榜眼」(対堂)二つ、「三紅」(探花)四つ、「四進」(進士)八つ、「二挙」(挙人)十六個、「一秀」(秀才)三十六個があります。

 閩南地域に始まった「中秋博餅」は、鄭成功が台湾を奪還してからの300年以来、台湾で盛んに行われていました。博餅文化は豊富な内容と面白さで、広く伝わって、参加者を引き付けています。

 

敬祖節

 アモイとその周辺の民衆にはこういう民俗を持っています。それは、旧暦の三月三日という「敬祖節」の日に、餅で祖先を祭り、それで一家囲んで餅を食べます。

 薄餅は「潤餅」か「春巻」とも呼ばれています。質のいい小麦粉で強靭で薄い皮を作って、前もって作った材料を中に入れて巻きます。ポイントは材料にあります。材料は餡とも言います。通常は豆腐の干し、ブタ肉、もやし、竹の子切れ、ニンジン、大根、韮、大蒜などを共に炒めて出来たものです。食べる時は餡を皮のにに置いて、竹筒の形を巻きます。表面は唐辛子みそとかわさびなどを塗ります。各種の料理が混合するため、食べると香りがよくておいしいです。

 薄餅はいつ始まるか誰も分かりませんが、民間にはこういう伝説があります。台湾取り戻したあと、鄭成功は強力に台湾を開発して、しかしまもなく台湾で死んでしまいました。息子の鄭経は台湾の経営を受け継いで、清王朝への抵抗を続きました。鄭経は何度も出兵して閩南あたりを攻撃して、

 清軍の強い抵抗のため庶民がきわめて数多く死傷しました。後は鄭軍の反撃の下で清軍は投降して、鄭軍は城内に入ったとき、民衆は鄭軍を歓迎しながら、薄餅を作って死んでしまった親友を祭ります。そのあと、旧暦の三月三日という日で、民衆は薄餅で祖先祭りをするようになりました。

 

新年祝いの習わし

 閩南あたりの田舎と都会は新年を祝う習わしは大分違います。田舎の農家は部屋とドアが多くて、春聯を貼るほか、ドアの両側は赤い紙で一周回って貼った連根のサトウキビを置きます。「扉のサトウキビ」と呼び、方言ではサトウキビは「佳」と同音で、佳境に入るという寓意があります。ホールの中のテーブルに除夜のご飯、料理と発を置き、その上に赤い、黄色い二色の紙でくくる「春の枝」を挿して、一年中食糧に恵まれて金儲けという寓意を含まれます。一軒ごとに芋の藤と柴をドアの外に並んで燃やして、火がメラメラ燃えるなら、男の人は世代順に従って火焔の上から跳んでいきます。そして、跳びながら「跳び入り、金持ち。跳び出し、煩悩なし。東跳び、糧足り。西跳び、金銭満ち」を話します。これは、「火跳び」と言います。過ぎ去った年の悪運を焼き尽くして、災難から免れて、縁起よく吉祥の一年を迎えるのを象徴します。

 「火跳び」したあと、新しい箒でホールを掃除しなければならなくて、掃除終わった後にほうきと箕を並んで置いて、ごみを扉の近くに置き、願いどおりになって畚とほうきの中から出てきて、家が幸せできるのを望んでいます。同時に「火跳び」の炭を消えないままストーブの中で入れて、「添」という言い方で、もっと繁栄な生活がやってくるということを表わしています。親が子供を連れてストーブを囲んで座って、「暖炉を囲んで夜を徹し新年を迎え」という意味です。できるだけ徹夜して、親に寿を増やすという効果があるといいます。この時、年長者は子供にお年玉を配り、「円を分けます」といいます。社会の発展に従って、生活のリズムが速くなってきて、閩南の田舎で複雑な習わしはいくつかは廃止されました。でも、いい年を期待する風習は保存しております。とくに、「暖炉囲み」のことです。師走の厳冬で、全家族の人がぽかぽかと暖かいストーブを囲んで、思い切って酒飲んで話し合い、過去を振り返て未来を展望するのは、いかに暖かくて、いかににしあわせでしょう。

 

端午節

 旧暦五月五日は端午節であります。五月節とも言います。アモイの端午節はちまきを食べたり、竜舟を競ったりという中国全国共通の習慣だけでなく、あひる捕らえ、豚捕らえなど独特の地方特色に満ちる競技内容を持っています。

 竜舟競漕(ドラゴンボートレース)は中国全国広げた習わしですが、アモイでは、非常に大規模で、今のアモイの集美にある「竜舟池」は周長1800メートルで、竜舟競漕のために作ったものです。19876月アモイの集美で行った「嘉庚杯」という国際竜舟コンクールでは、全世界から集まった選手達は激しく張り合って、壮観な場面を呈しました。

 

尚紅の習わし

 閩南人は、「赤」という色を尊い、めでたい、吉祥としています。

 祝日たびに、村から村に、繁華街から人通りのない小道に、至る所に赤いものに会います。春節には、必ず扉と窓などに春聯を貼ります。除夜には、農家の人は広間の机に一鉢のご飯を置きます。ご飯の上で1本の赤い春の花を挿し込んで、吉祥の意味を示します。方言で「春」と「剰」は発音が同じで、「食糧が余剰」という意味で新年を祝います。新年を迎えるには、どの家も餅を蒸して、そして必ず餅ごとに四粒の大きいナツメを押します。また、「発」という物を蒸し、その上で何粒の赤色のポップコーンをまき散らして、四角形の竹箸を十字の形に割って、赤い水をつけて上に赤い点を四粒つけます。それから赤い絹織物の春の花を挿し込みます。除夜には、年上の人が年下に贈るお年玉は赤い紙で包みます。今は「恭喜発財」という字を印刷した赤い紙袋を使います。

 旧暦の六月十五日は「半年」と称します。冬至と元宵節では、団子を食べるという民間の習慣があります。団子を食べて一家団らんを祝います。団子を作る時は吉祥のために、赤色の団子をも何粒作ります。

 何年前には、結婚した時はめでたいだから、家全体を赤く装飾しました。広間とすべでのドア、窓に新しい対聯を貼ります。赤ん坊満月の時も赤い「満月円」を作ります。油ご飯を蒸して赤く染めた二粒の卵と一緒に親戚と友人に贈ります。親戚と友人のほうは産婦にキグチ、鶏、卵などを贈呈して、赤い紙を貼り付けて、鶏の足に赤い紗を結わえます。老人の誕生日はホールで真っ赤の寿軸を掛けて、「天が歳月増し人間は寿増し、春は天地に福は家に」といっためでたい言葉を書いてあった誕生祝いの対聯を貼ります。

 まだ誕生祝いの寿モモ、寿カメを作らなければなりません。寿カメの色は赤色です。

 

歌仔戲

 歌仔戲は閩南地域にはやっている閩南歌仔を基礎とし、梨園戲、北管戲、高甲戲、京劇、閩劇など戲曲の栄養を吸収して形成された閩南方言戲曲の一種であります。21世紀の初めごろの台湾島で生まれ、我が国360種類余りの戲曲の中で、唯一台湾で生まれたものであります。台湾、福建閩南ないし東南アジアの華人集中地域で、歌仔戲は広く流行しています。

 歌仔戲が発展してきた歴史は、海峡両岸文化交流の歴史とも言えます。闽南歌仔戲は台湾に伝わって、数百年の発展により、やっと「七字調」が作られました。「七字調」は歌仔戲の誕生を表示しています。

 歌仔戲はすばやくアモイ、それとともに閩南と東南アジアに伝われました。世紀の初め、戴水保という名の先生の伝授を受けて閩南で一番早い歌仔劇のクラス「双珠鳳」と「新女班」はアモイで創立されました。あとで知名度が高い台湾の歌仔劇のクラス「玉兰社」と「霓生社」などはアモイに来ました。閩南公演は、センセーションを引き起こして、台湾の歌仔劇の芸人赛月金、月中娥などの何人がそのまま閩南に残しました。

 抗日戦争の時に、閩南の邵江海などの民間芸人は、歌仔劇と閩南の歌仔を溶け合って「雑砕調」を創造して、歌仔劇の新しい芸術の発展を進めさせました。

 1948 年に、アモイ都馬歌仔劇劇団は公演に台湾に赴き、台湾を残しました。都馬歌仔劇劇団は「雑砕調」を台湾に連れていき、台湾の芸人と観衆の熱烈な歓迎を受けて、「雑砕調」を「都馬調」に称しました。その後、「雑砕調」と「七字調」は歌仔劇の二つの最も主要な節回しになってきました。歌仔劇は海峡両岸の人民が共に創造して共に擁する貴重な芸術で、すでに両岸の人民をつながる重要な文化的な絆になりました。

 

 

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